桂由美

ブライダル・ファッションデザイナー
桂由美

1965 日本初のブライダルファッションショー開催。

1968 日本初のブライダル専門書『ブライダルブック』を出版。

1969 スペシャリスト養成のため全日本ブライダル協会設立。

1973 南青山・ 乃木坂に桂由美ブライダルハウスオープン。

1986 中国へ進出。北京において、中国初のブライダルファッションショー開催。

1991 ヨーロピアンエクセレンス協会より「トライアンフ大賞」受賞。

1993 前ローマ法王に、イースター祭服デザイン、献上。「外務大臣表彰受賞」。

1995 アジア各国の婚礼文化及び婚礼衣装の伝統を次の世代に継承するための、アジアブライダルサミットを主催し、以後毎年開催。

1999 東洋人デザイナーとして初めて、イタリアファッション協会正会員となり、ローマオートクチュールコレクションに参加。

2001 シャネル、アルマーニ、ミッソーニなどと共にスペイン広場のショーに出演し、ラストを飾る。

2003 春夏パリオートクチュールコレクション初参加。以後毎年参加。

2005 パリ・カンボン通りのシャネル本店前にパリ店オープン。

2006 Newsweek『世界が認めた日本女性100人』の一人に皇太子妃・雅子妃殿下はじめ、緒方貞子さん、黒柳徹子さんらとともに選出

2009 桂由美創作活動45周年を記念し「桂由美×假屋崎省吾 美の饗宴」を8月日本橋三越本店、9月そごう千葉店にて開催

2010 全米ブライダルコンサルタント協会から世界で4人のみの名誉会員の称号を授与。

未来志向、協力者、日本人らしさ。
すべてを手に、世界へ羽ばたいて!

ブライダル・ファッションデザイナー
桂由美

46年前に東京の赤坂・一ツ木通りの店からスタートし、今や世界のウエディングドレスデザイナー、そしてブライダル事業の経営者として活躍する桂由美さん。
芸術作品とも言うべきウエディングドレスを通して「文化」までをも創り出す活動の軌跡や創造のヒントを、特別にお話しいただきました。

――ウエディングドレス専門の事業を手がけた理由を教えてください。

和装婚がほとんどでウエディングドレスを着る方が3パーセントしかいなかった46年前の日本で、先を見越し、ウエディングドレス専門の事業を手がけた起業家(パイオニア)などと紹介されることが多いのですが、とんでもありません。その3パーセントの方々が気の毒で、何とか役に立ちたいと社会事業のつもりで始めたというのが本当のところです。最初の10年間はビジネスになりませんでしたし、起業家として始めていたら、きっと長続きはしなかったでしょう。
ブライダルの仕事をしたいと思い始めたのは、母が経営する洋裁学校で講師をしているときでした。(注1) ウエディングドレスを卒業制作の課題にしたものの、どの生地屋にもウエディングドレス用の広幅の生地やレースの種類がない。白い靴もアクセサリーも、ブーケを作る花屋さえもなかったので、何もかも自分たちで準備しなくてはなりませんでした。ウエディングドレスを着るという夢をかなえるために、花嫁がたいへんな思いをしなくてはならないことを実感したのです。
留学を決意し、1年かけて世界各国のブライダル事業を調べ歩き、そのなかで自分がするべきことの構想がまとまってきました。例えばブライダルの勉強をしようと思ったときに参考にする本が一冊もない。やむなく海外の書籍を翻訳に出してひも解いたことから、「ブライダルの参考書を書く」ことや、欧米を視察したときに婚礼衣装の売り場が男女別なのを見て「私だったら男女一緒の売り場にする」と思ったり。ほかにも「ブライダル協会を作って全国に私の分身を作る」「花のアレンジメントの開発が必要」といった溢れる思いを、すべて手帳に書き込んでいきました。

――最初の10年間はどのようなライフスタイルだったのですか?

1964年、赤坂に店をオープンして1年目にドレスを製作し、販売したお客様は年間30名ほどでした。店にはもっと多くの方々が足を運んでくださいましたが、当時は花嫁のお母様やお姑様から「着物でないといけない」と反対される方も多かったのです。当然、一年半ぐらいは赤字でした。2、3年目は、5名のスタッフの給料を払い、生地を仕入れると私の取り分が無いという状態でしたので、週に3日母の学校で、午前、午後、夜間と生徒を教え、夜10時を過ぎたころに赤坂の店に戻りました。学校で教えていたときには学校に住み、赤坂に店を開いてからは店に、現在の南青山の店でも最近まで上の階に住んでいました。学校で教えることで、そこから給料をもらい、店に住むことで住居費を節約して店と学校を両立していたのです。定款などを含めあまり得意ではない会社の設立や店の経営は、すべて現場で学びました。
振り返ると、先の手帳に記した一つひとつを実現してきたのが、私の人生なのだと思います。ブライダル協会を作る、ウエディング・プランナーを育てるなど、その後私が実現してきたことは、全部その手帳に書いてあったことなのです。
南青山の店も、手帳に書いた思いがまた一つ実を結んだものでした。日本では当時、ウエディングドレスはすべてオーダーで、花嫁の半年分もの給料がないと着ることができませんでした。一方、誰もがウエディングドレスを着る欧米では量産ができるため価格が抑えられ、結婚する方のサラリー一カ月分ぐらいで買えるということを知り、「日本のウエディングドレスのプレタポルテ化(注2)をしなければならない」と強く思っていたのです。一ツ木通りの店はオーダーの店ですから、生地とサンプルが置いてあればよかったのですが、いよいよ一カ月のサラリーで買えるウエディングドレスを作るとなったときにもっと広い場所が必要になり、店名も「桂由美ブライダル・ハウス」と改名し、現在の場所へ移ったのです。
ここには、オートクチュール、プレタ、レンタルと花嫁が望むウエディングドレスを創るすべての選択肢があります。そして少しでも花嫁の希望に添うためにプレタポルテのドレスもデザインを壊さない範囲で、希望に応じて袖をつけてあげたり、襟ぐりの形を丸から四角に変更したりして、オートクチュールの要素を取り入れ、「プレタクチュール」と銘打ち対応しています。私も年4回は東京、大阪各店に自ら立ち、時代によって変化する花嫁の希望に応えています。(注3)そして今でも、手帳の最後のページには、これまで実現してきたことの記録とともに、来年、再来年と、未来の構想を書いています。

――「創造」の世界で成功するために必要なことは何でしょうか?

一つは「未来志向」の仕事をすること。ブランドを永久に続けていくためには、当然デザイナーは変わっていくものですから現在、オートクチュール以外のウエディングドレスは、若いデザイナーにどんどん任せています。現在は自分のポジションをクリエイティブ・ディレクターと位置づけており、各デザイナーから上がってくるデザインで「ユミカツラ的ではないな」と思うところを直していくことが役目です。そして、売れるかどうかはわからないけれども挑戦していく「未来志向」の仕事、これこそ私自身がデザインしなければならないと思っています。
昨年も、筑波の研究所が等身大のロボットを作成したことを知りロボットに着せるウエディングドレスを制作しました。ロボットのウエディングドレスを作ったのは私が世界で初めてだと言われましたが、ロボットの体型や動きに合わせて柔軟にと考えながら作りました。このロボットは私の大阪でのショーに出演し、無事に3ステージこなしてくれました(笑)。
何もかも一人ではできませんから、協力者も必要です。「創る」ということはお金だけで解決できることではありません。お金がたくさんあるから新しいドレスを作ってください、といわれて創るものではないと思うのです。自分の損得にかかわらず新しい物の開発のために協力しますよと言ってくださる人たちの情熱がないと実現できないことが数多くあるのです。10年前、和紙のドレスを手掛けた時も越前和紙の工房がまったく新しい試みに我々と一緒に取り組んでくれたから「和紙を超えた和紙」の『WASHI MODE―ワシモード』が誕生したのです。来年のパリオートクチュールコレクションでは「KYOTO LEGENDE」と銘打ち、京都の伝統工芸を駆使して日本をアピールしようと企画しています。現在20社近くの伝統工芸の方々にコラボレーションしていただいていますが、皆新しい世界へのチャレンジに燃えています。オートクチュールのドレスを一つ作るには1着何百万円もかかります。高い費用を払えば、お金の魅力でやってくれる人は数多くいますが、そこから人々を感動させる作品は生まれません。「一緒に新しいものを作りましょうよ」とおっしゃってくださる方がクリエイティブな世界には必要なのです。
そしてもう一つ、家庭をしっかりさせておくことも大切です。私は40歳の声を聞く頃に、仕事だけでの人生ではいけないかも知れないと感じ結婚を考え始め、42歳で結婚しました。友人や仕事の関係者には話せない、いろいろな悩みを打ち明けることができる、絶対的な味方がいるということが私の仕事の自信を強くしてくれたと思っています。実際、精神的な心の安定は何よりも強い味方でした。家庭といっても、夫婦に限らず、ご両親であっても親戚であっても、心の支えとなる家族の存在があってこそ、クリエーターとしてより力が発揮できると思うのです。

――最後に、女性芸術家たちにメッセージをお願いします。

グローバリゼーション――世界が一つになっていくということは、各国のもつ良さや悪さが平均化されていくことでもあります。日本が遅れていた男女平等問題などは改善されつつありますが、日本女性の美徳である、良い意味での謙虚さや、慎ましさまでもがなくなってきたことは問題だと思います。私は着物の優美な後ろ姿にアイデアを得て、「由美ライン」と呼ばれる独自のラインや、現代的な工夫を しながらもドレスに匹敵する新しい着物の提案を続けていますが、皆さんにも日本独特のもの、日本の伝統から見出される美しさを、現代を生きる日本の女性の感性で大切に受け止め、表現し、世界へ羽ばたいていってほしいと願っています。

この46年間、実に64万人の花嫁が袖を通し、人生の門出に立ったという桂由美さんデザインのウエディングドレス。その一つひとつには、「すべての花嫁の夢を叶えてあげたい……」という、起業当時と変わらぬ桂さんの思いが込められています。その揺るぎない「創造」への思いが、今もなお世界で活躍を続ける秘訣なのかも知れません。

注1) 由美さんの母親は、服飾分野美容分野の専門教育の先駆けとして、古くより多数の人材を育成してきた東京文教学園創立者の満生みつ子氏。早期より「手に職を」もつことを説き、以降の経済的自立を通した女性の地位向上・社会進出を予見。人徳とバイタリティーに溢れたその人柄は、職員や生徒にも慕われた。後継者にと考えていた由美の「ウエディングドレスを創りたい」との願いを、学校の運営を続けることを条件に許してくれたという。「当時は洋裁ブームで母の学校には生徒もたくさんいましたし、そのうち飽きるだろうから、やらせてみようと思ったのでしょう。赤坂の店を開くことで学生の実習にもなるという考えもあったのだと思います」と由美さん。
注2) オートクチュール(高級オーダーメイド服)は、限られた個人客からの注文を受け、一点一点手作業で制作した服を顧客に渡す。一方で、プレタポルテ(高級既製服)は、基本的には卸売から大量受注して小売する。
注3) 桂由美コンサルティングデーのこと。